暑い日が続きますね。
本州では、連日、35度超のニュースが流れているが、札幌も最近は暑い日が続いてます。
今日は、札幌・西区では、朝方は風もあり、しのぎやすい日かと思いました。
毎月1度の通院のため、中央区の病院へ地下鉄で出かけました。
検診が終わって外に出ても、それ程暑くは感じられなかったので、JR札幌駅経由で歩いて自宅へ帰ることにしました。
大通りを東へ向かって歩き、地下鉄4丁目駅からは地下へ降り、JR札幌駅迄は地下遊歩道を歩きました。
JR札幌駅から地上に出て、JR函館線沿いに歩き出すと、ほどなく、じりじりとした日差しが・・・
JR桑園駅付近まで歩くと、汗が顔から身体中から噴出し、歩きを断念してJRで帰ろうとしました。
しかし、JR桑園駅から、電車遅延のアナウンスが聞こえてきました。
人身事故があったらしくて、運転を見合わせているとのアナウンスです。
しかた無いので、そのまま歩きを続行。
JR桑園駅から次の琴似駅までは、競馬場付近を通るのだが、その付近は陽を遮る建物がなく、容赦なく陽射しが照り付けます。
おまけに、風も途絶えて、歩道の照り返しもあり、ますます汗がしたたり落ちて・・・
ようやく家にたどり着いた時には、雨にでもあったように上半身は汗だくです。
シャワーを浴び、冷たい麦茶を飲んで、ほっとしたとたにん、全身がけだるく、頭はぼんやりとしてくるし、動悸はするし、おまけに吐き気まで・・・
冷たいタオルや保冷剤で身体を冷やすが、横になるとくらくらと目が回るような症状に襲われました。
これって、熱射病?
結局、その日は、そのまま夜7時頃迄眠ってしまいましたが、はじめての経験でした。
日経onlineから
日経onlineの7月12日付けのニュースで、「ニューヨーク市、公衆電話ボックスで無料Wi-Fiを提供するプロジェクトを発表」と言う情報が載っていた。
何でも、ニューヨーク市内の公衆電話BOXで無料のWi-Fiサービスを展開すると言うらしいのだ。
私は、NTT東日本のフレッツ・スポットを利用しているが、あまりにもアクセスポイントが少なすぎ、めったに利用していない。
是非、NTTでも公衆電話BOXを再活用して、同様のサービスを展開してもらいたいものだと思う。
でも、それにしても、最近は公衆電話BOX自体、あまり見かけなくなった。
携帯の爆発的な普及により、公衆電話が使われなくなったせいかもしれないが・・・
所詮、電話会社。きめ細かく設置した公衆電話BOXを新たなサービスに活用するなどといった、先見の明が無い会社なんだろう。
Wi-Fi端末が爆発的に売れているのに、そこに新たなサービスを展開するといった企画ができない会社なんだろう。
正月休みも今日で終わり・・・
今年の正月は何もしないで終わってしまった。
明日からはまた仕事が始まる。
平成23年度も残すところ、あと3ヶ月。早いものだ。
4月になれば平成24年度。会社勤めも最後の年となる。
前回は、私が生まれた昭和27年の出来事を振り返ってみたが、今回は私が1歳の時、昭和28年の出来事を振り返ってみたい。
その前に、前回書き忘れたが、私が生まれた年に、電電公社が発足している。
つまり、私は電電公社発足の年に生まれ、偶然にもその電電公社に勤めることになった訳だが、これも何かの縁なのだろうか。
昭和28年は通信業界では、NHKがテレビ放送を開始。
KDDIの前身である国際電信電話株式会社設立。
電電公社では「赤電話」がサービス開始し、全国で電話加入者が200万を突破した年だそうだ。
政治情勢はまだまだ安定してはいなく、中国からの引き上げ開始だとか、軍人恩給開始だとかといったことが話題になっていることから、戦後の混乱がまだ尾を引いている年のようだ。
この年の流行歌では、今も歌い継がれている「雪の降る町を」があり、鶴田浩二の「待ちのサンドイッチマン」等がある。
そう言えば、私の古い上司に、宴会で必ず「待ちのサンドイッチマン」を歌う上司がいたことを思い出したが、まだ健在でいらっしゃるのだろうか・・・・
今年は年男、還暦を迎えました。
今年の元旦が雪も降らず、穏やかな正月かと思ったら、2日目は雪が深々と降り注ぎ、だけど静かな深夜。
私は1952年4月2日(昭和27年)に、紋別郡滝上町に生まれました。
年が明けたが、昨年、図書館の女性職員が行方不明となった町です。
私が生まれた頃の滝上町は、木材が主な産業だった記憶があり、冬には丸太を積んだ馬ソリが往来し、小学校への登下校時は馬ソリにつかまってよく怒られた記憶があります。
家はお世辞にも裕福とは言えず、冬になると家の中でもシバレル様な寒さになる、そんな家に住んでいました。
滝上町には、小学校3年まで住み、その後、紋別市に移住し、紋別南高校を卒業して、当時の電電公社、紋別電報電話局に就職。
それから現在に至るまでの40年間、転勤を繰り返しながら転職もせず、このまま2013年3月の退職を迎える事になるんだろうと思っている。
振り返れば、人生の2/3を会社勤めに費やしたことになる。
結婚は25歳の時で、30代から40代半ばまでの一番、気力が充実し、一番家族との大切な時期を仕事一筋に過ごしてしまった。
当時は、通信設備が急激に電子化されだした時代で、私も東京の電子交換機のソフトウェア開発部門にいて、朝早くから出勤し、深夜に帰宅する毎日を過ごしていた。
当然ながら、当時、小学校の通う子供達とはほとんど顔を合わせることのない日々が続き、父親不在の家庭であったことを思い出す。
そう言えば、私の父親も森林伐採の現場に長期間でかけ、父親と顔を合わす機会が殆どなかったような・・・歴史は繰り返すものなのか・・・
今、60を迎えるにあたって、希望に燃えて入社し、自分に与えられた仕事に誇りと充実感を持って取り組んできた30代、それが、社会の需要の変化に追随できない会社の中で翻弄され、プライドも引き裂かれ、今はただ毎日が時代遅れの設備のメンテナンス業務のルーチンワークに組み込まれて過ごす毎日である。
昭和27年は第2次ベビーブーム世代と言うこともあって、周りは同世代の老人の溜まり場・・・・
私は早くからパソコンに興味を持ち、当時高額であったPCを早くから所持していた。最初のPCは、日立製のベーシックマスターだった。
メインメモリが16k程度で、外部記憶装置はテープレコーダ。
それが、今は・・・・
私は生まれた日の前日には琉球政府が発足。沖縄がまだ米国の占領下にあった年である。日本が第二次大戦に敗戦し、国連軍の占領化の時代がようやく終焉を迎えようとする年である。
4月28日には、対日講和条約・日米安全保障条約発効.GHQ廃止。
7月1日には東京国際空港(羽田)が業務を開始し、住民登録が行われるようになったのもこの年である。
還暦とは、干支が一巡しすることで、人生にとって、新しく生まれ変わる年である。
そこで、今年の抱負として、退職までの1年間、私が生まれてきてから現在までの記憶に残る出来事を振り返るとともに、その時代時代の出来事についても触れてみたいと思う。
ちなみにこの年の流行歌は、美空ひばりの「りんご追分:や春日八郎の「赤いランプの終列車」らしい
異動シーズン
今年も異動のシーズンを迎えて、私も4月1日付けでようやく中間管理職の肩書きが取れた。
今度の仕事はお客様設備の故障修理を行う担当。
故障を受け付ける担当から、その担当が手配した故障を修理する担当で、密接な関連のある担当への異動とあって、内心、ホットしている。
私の勤める会社では、1年契約の有期契約社員を大量に雇用していた。
JRの前身である国鉄同様、戦後のベビーブーム世代、いわゆる団塊の世代を大量に抱えており、固定費圧縮のため、様々な施策を会社は行ってきた。
現業部門を子会社化し、50歳になった社員に対し、雇用選択制度と言う名の下に、一旦親会社を退職し、子会社へ再雇用させると言うものである。
この時、子会社への採用条件は、親会社での最終賃金の3割カットの賃金で採用すると言うもので、実質的な賃金カットである。
更に、新規採用を抑制し、社員退職による後補充は地場賃金による有期契約社員の採用で稼動を補ってきた。
それが長年続き、700名近くに及ぶ有期契約社員を抱えるに至った。
その有期契約社員を昨年10月頃に、グループ内で派遣業の資格を持つ会社に雇用替えを行う旨を通知、今年の1月1日にそれを強行した。
おりしも、国会では派遣法の見直しを行っている最中とあって、私の勤める会社は野党から指摘され、雇用替えに同意しない契約社員や、同意したものの、同意を取り消す契約社員が現れ、それらの対応に追われる毎日が続いた。
会社の労務担当や経営陣からは、管理者のコミュニケーション不足からこのような結果を招いたのではとの指摘もあり、段々と精神的に追い詰められる毎日であった。
4月になれば役職定年で管理職を退くことができる。と、それだけが救いの忍耐の毎日であった。
今、ようやくその精神的な負担から開放され、新たな環境で、これから60歳退職までの毎日をどんな仕事をして過ごそうかと、僅かばかりの希望を持って会社に出ている。
これから北海道も遅い春を迎えるが、私にも小さな春でいいから、訪れてほしいものだ。